新潟にあった、アメリカの大学の日本校に入った。 在籍したのは1年弱。6月くらいに入学して、4月か5月には離れている。
先に書いておくと、楽しかった。
the 明るい学校
授業は全部英語だった。それが楽しかった。
the 明るい学校、という感じだった。 まだ留学していないのに、留学ってなんて楽しいんだ、アメリカってなんて楽しいんだ、と思った。
いま思えば理由がある。ELSの先生たちは、そういうトレーニングを受けている。 コミュニケーションが優しく、英語も聞き取りやすい。 英語が分からない学生を相手にするプロが、そこにいた。
このことの意味は、後で嫌というほど分かることになる。
ものたりなかった
楽しかったが、ものたりなかった。
先輩たちを見ると、すでに2年や3年、ここで学んでいる。 アメリカへは、最後の2年くらい行くだけだ。
私は勉強だけでなく、経験もしたかった。4年間みっちり過ごしたかった。
……と書くと立派に聞こえるが、本当のところはそれだけではない。
嫉妬
正直に書く。
明るく楽しい学校生活だったが、同期の女性たちの多くは先輩たちに憧れていた。 非モテの私にチャンスはなかった。
同時に、嫉妬や不快感を持った。
アメリカに行かずに、こんなところでお山の大将(実際、山の上にあった)を気取っている先輩たちみたいになりたくなかった。
いや、なりたかった。
後輩が入ってくれば、なれる可能性もあった。 でも非モテなので、なれない可能性も大きい。 それに寮住まいだし、先輩たちのようにアパートに出れば金銭的な負担は増える。 何より、学費が高い。
嫉妬と、劣等感と、金。私が日本校を出た理由は、そういうものだった。
480点で入れる学校を探す
いつからかは忘れたが、1年で学校をやめてアメリカに行く決心をした。
TOEFLに挑戦した。 そして高校時代から持っていた大学カタログを引っ張り出して、条件で絞った。
学費が安く、当時のTOEFLで480点程度でも入れる学校。
(当時のTOEFLは今と点数の体系が違う。数字そのものは現在の基準と比較できない。)
夢や理想ではなく、払える金額と、届く点数で選んだ。
そこから郵便や電話でカタログを請求した。
インターネットがなかった
当時はインターネットがない。やりとりは郵便と電話だけだった。
海の向こうの学校に手紙を出して、返事を待つ。 資料が届くまで何週間もかかる。
電話が必要なときは、自分ではかけられなかった。 当時親友だった、38歳のアランという本好きの留学生に、学校へ電話してもらった。
いま留学を調べている人は、たぶん数分で十数校を比較できる。 私が持っていたのは、紙のカタログと、電話をかけてくれる友人だけだった。
こうして行き先が決まった。 学費が安くて、TOEFLの点が足りて、カタログに載っていた学校。
ワシントン州にある、Big Bend Community College という学校だった。
いま振り返ると、私は街のことを何も調べていなかった。
この記事は筆者の記憶に基づく個人的な回想です。1990年代半ばの出来事であり、 当時のTOEFLのスコア体系・入学要件・情報収集の手段は現在とまったく異なります。