留学した人の話は、たいてい立派な動機から始まる。 夢があった。学びたいことがあった。世界を見たかった。
私の場合は違う。練習をサボりたかった。
3km走の途中で
高校に入って、ラグビーを始めた。中学の部活とは違って日曜日が休みで、大人扱いされている感じがあった。 発祥のイギリスの影響かな、と思っていた。ときどきどこかからもらう冊子に海外の高校生の記事が載っていて、 それを熱心に読んだ。
ただ、練習は毎日あってきつくて、嫌だった。
ある日、3km走らされている途中で、後ろから追いかけてきた太ったプロップが言った。
「おい、知ってるか?NZは世界一強いけど練習は2日しかねぇらしいぞ」
練習をサボりたいので、私は完全に同意した。 こんな無駄なことをやっていないで効率化すべきだ、と思った。
そして、ニュージーランドがどんな練習をしているのかが気になった。
これが私の最初の「海外」だった。留学など、そのときは夢のまた夢だと思っていた。
バイト先の、7歳年上の人
同じ頃、日曜日はファーストフードでアルバイトをしていた。
7歳年上の、背が高いきれいな女性とときどきシフトが重なった。 英語の塾の先生をしているという。同じ高校の卒業生だと分かって共通の話題ができ、話すのが楽しかった。
半年くらいすると、彼女はアルバイトをやめると言った。理由はアメリカ留学。 アメリカの正規の大学に入学するのだという。
私は疑問に思った。
同じ高校なのだから、たいして頭はよくないはずだ。金持ちでもない。どうやって行くのだろう?
(後年、答えは単純だったと知る。彼女は英語塾の講師とアルバイトを掛け持ちして、金を稼いでいた。)
紀伊國屋まで、高速バスで
彼女が去ってからも、疑問は残った。
時間のあるときに、新潟市の紀伊國屋まで高速バスで行った。 留学関係の本の棚で本を物色して、バイト代でいろいろ買った。洋書も買った。
アメリカ大使館だったか、どこかから大学のカタログを取り寄せて、眺めていた。
当時は円高で、年間3,000ドルくらいの学費のところもあった。 (1990年代半ばの話で、今の相場とはまったく違う。念のため書いておく。)
眺めているうちに、行けるかもしれない、と思い始めた。
頭が狂ったと思われた
高校3年の途中までは、日本の大学に入るつもりだった。理系を選んでいた。
頭のいい高校ではなかったが、成績は良かった。 あの高校には貴重な推薦の枠が一つあって、それは私が使うものだと思われていた。
いつ決心したのかは、もう覚えていない。
アメリカの大学に進学すると言ったとき、頭が狂ったと思われた。
担任は、私が習ったことのない英語の先生のところに私を連れていった。 その先生は怒ったような感じで、アメリカの大学がどれだけ大変かを説明し、絶対に無理だと言った。
私は何も驚かなかった。そういうことは、紀伊國屋で買った本に全部書いてあった。
家族も同じ反応だった。
物理2点
もう決めていたので、私は得意だった数学や物理の授業中に、英語の勉強をするようになった。
成績はどんどん落ちた。最低だったときの物理の点数は2点。
他の教科も同じだ。まったく勉強しなくなったので赤点ばかりになり、先生たちが驚いた。 物理で2点を取るような状況に陥ると、もう追いつくことは不可能になる。
アメリカの大学に入るどころか、高校を卒業できるのかという危機に陥った。
どうやって切り抜けたのか、実は思い出せない。それまでの成績のおかげだったのかもしれない。
私はいまでも、高校を卒業できない夢を見る。
母が持ち帰った資料
家族は大反対だった。ただ、母は理解しようとしてくれていた感じがあった。
当時、日本にはアメリカの大学の日本校がいくつかあった。 母が、ネバダ大学日本校の資料を持って帰ってきた。
その中に、落合信彦さんの講演の記事があった。 当時の私は、この人が誰なのか知らなかった。それでも、燃料に引火した。
最終的に、母はこう言った。 まずはアメリカの大学の日本校から入るなら、いい。
こうして私は、新潟にあったイリノイ大学日本校に入ることになった。
父は、地元の新潟で私にトライしてほしい大学があったようで、さびしそうだった。
私の留学の動機は、こういうものだった。 立派でもないし、計画的でもない。練習をサボりたくて、バイト先の疑問が残って、本を買って調べただけだ。
もしいま、留学は意識の高い人がするものだと思っている人がいたら、 物理2点の高校生が言ったことだけ覚えておいてほしい。
調べれば、行き方は書いてある。 私が読んだのは、新潟の書店で売っていた本だった。
この記事は筆者の記憶に基づく個人的な回想です。1990年代半ばの出来事であり、 当時の学費・制度・進学ルートは現在とまったく異なります。 現在の留学費用については別の記事に、確認日付きで書いています。